「as I am」あるがままの私
在るがままの自分とは
Asi.(アシ)にアクセスしていただき、ありがとうございます。発起人の田熊ゆいと申します。
前回のコラムでお伝えした「本質的な在るがままの自分」とは、どういうことなのかを今回はお話ししたいと思います。
「あるがまま」と「わがまま」の違い
一昔前の教育では、集団において異なる個人の意見や行動は悪であり、排除される対象でした。
「わがまま」というレッテルが貼られ、集団生活、行動を乱す問題児として扱われた経験を持っている方も少なくないと思います。
ここ数年、AIが大衆サービスに使われ、やっと人間らしい個が尊重される時代になってきたように思いますが、いまだに日本の社会は同調圧力が強く、自分らしさを表現するのには気を使う環境です。
これからの時代に受け入れられる自分らしさとは一体なんでしょうか。
まず最初に超える壁が「わがまま」と「あるがまま」は全く違うと、完全に自分が理解することです。
「わがまま」とは辞書の通り、相手・まわりの者の意に反して、無理な事でも自分がしたいままにすることをさします。
「わがまま」は幼稚さが付きまといます。
禅の世界での「在るがまま」という意味は、自分の思いや枠をなくした上で、見えてくる自然な状態を指します。
在るがままの自分とは、無意識に行っているジャッジメントやエゴを手放し、ただ目に見え、耳に聞こえ、心に感じたそのものの状態でいること、Asi.のネーミングの由来でもあるas I am、 和訳すると「私そのもの」です。
同じように捉えられがちな「あるがまま」と「わがまま」は、似ているようで全く異なるものなのです。
いつでもどこでも私そのものでいる
自分らしく私そのもので生きていく為に必要なのは、精神性と調和です。
自分の未熟さを受け入れ、瞬間瞬間、自分を観察し続けることです。
日々の出来事に対して感じている自分自身の感情、思考パターンに気づく。
そしてそれが幼稚さやエゴからのものならば、不要と決めて解放します。
その連続が精神性を高め、万物と調和し「在るがままの自分」に近づいていきます。
Asi.が魂の成長の一助になりますように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
channeling art by TSUBASA NAKAI
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