21/June/24 ‐ 2024年夏至
6月20、21日の2日間、合計15㎞標高差で700mくらいを歩いていた。
太陽の角度の高いこの日だけが特別とは思わないけど、今日の植物は生命力にあふれていた。
標高も2500m前後の山道を歩くのだから、疲れないわけがない。
歩き続けるうち思考が停止し、大地の呼吸と自分の呼吸が共鳴しているような感覚の時が来る。
命の力のみなぎるヒマラヤの夏至の植物たちが、渡りの鳥たちが、水が風が土が日がささやいてくるような気がした。
ただ、今年も同じ場所に、同じ植物が生えていることがたまらなく嬉しいと感じた。
今年も渡りの鳥たちが、同じ場所にやってきてくれていることがたまらなく嬉しいと感じた。
こうして今年も夏至という日をこの山で迎えることができ、春夏秋冬、冬の時期には命を一度終えたり眠ってしまった生き物たちが、今年も戻ってきている事を感じられた事に感謝が溢れた。
いつもの道のりに繁る野生の植物たちは、私の記憶に深く結びついて人間以上に親愛なる関係性すら感じてしまう。
ヒマラヤの大地に生きる無数の生き物たちの息吹に圧倒されるような感じがして、歩きながら涙があふれた。
一年草の植物たちは、人間が何もしなくても、冬に終えた命を蘇らせ同じ場所に生きている。
多年草の植物たちは寒い冬に眠らせ固く閉じたような樹皮を、緩め葉を広げ大きく呼吸をして生きていると語りかけてくるようだった。
来年の夏至、一年草の植物はここにいない。だけど、遺伝子を種子に継ぎ巡りここにまた花を咲かせてくれるよう。この土地が守られるよう心から祈った。
来年の夏至、もしも私がいなくても、昨日一緒に歩いた友達はこの空気を吸う度、この植物を見るたび私を思い出すだろう。
私がこの世界にいることはそんなに重要ではなくて、来年の夏至もこの山道に生きる命の尊さに心震える人がいたらそれでよい。
そのうち、もしも人間がこの星に居られなくなったとしても、この世界にこの植物たちが、鳥たちが、虫たちが、動物たちがいてくれるのなら、とても嬉しいと思い始めた。
さらに歩いていると、大きな宇宙の中の小さな地球という星がいつか消えてしまう寿命があるものだとしても、たくさんの命が懸命に生きたことがとても尊いことだと思った。
その想いは海の中でに全身で潮流を感じるかのように目には見えないけれどそこに在って、私の周りに充満しているようだった。
山に溢れる命たちの息遣いと命の営みをそこにありありと感じ、海の中を潜るように山道を登り続けた。
星々が巡るリズムのおかげで、地球が息を吸い吐くように春夏秋冬を繰り返してる。
命の営みも海が満ちて引くように、その満ち引きが繰り返されるそのことが、美しく尊くありがたいことだろう。
私たち人間も命のバトンを繰り返してる。ただそれだけ。
そのただそれだけが、とてもとても尊く感じた。
地球という星の慈愛と恵みのありがたさに
宇宙の巡りの偉大さに、涙が頬を伝うのを感じながらヒマラヤを歩き続けた
儀式めいた何かを行うのではなく、朝起きて瞑想をして祈って生きる。
山岳民族にとっては毎日がセレモニーの日常。
丁寧に一つ一つを丁寧に。
そうやって毎日をつなげていくと、自然と地球と宇宙のリズムと調和してくるよ。
長老たちから教わったそんな暮らしを続けていると、こんな瞬間が時にやってくる。肉体をすでに離れた智慧のある人達が私の中に今も一緒にいてくれて、こうして共に歩んでくれているよう感じながら今日の体験を振り返っている。
Photo by MutsumiUmi
今日は一日曇りだったけれど、月の出がきれいでしたのでその写真を添えたいと思います
それが今年の夏至、ヒマラヤを歩き続けた私にやってきたメッセージ
全ての存在が祝福と共にありますように
祈りを込めて
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