「好きを仕事に」が幸せとは限らない理由
2023年ももう終わりですね!
写真は、淡路島の慶野松原で見たサンセット。
今年の振り返り、とも思ったけれど、今は必要な感じがしないので、
今回は「好き」と「スペック」の違いについて。
文章を生業としているけれど、
文章がすごく好きというわけではなく、なんならあまり好きではない、できれば書きたくない、
と思っていた。
でもなぜかずっと書く仕事をしている。
基本的にはエディトリアルやディレクションがメインであり、
書くことはあくまで仕事のツールだと思っていた。
けど、
文章を書き終わったあとは全部出し切ったような爽快感もあるし、
書いてる最中はあまりあれこれ考えないので、ある種の瞑想状態に入る。
ゆえに書いているときのことをあまり覚えていない。
ノリに乗って書いてるときはたしかに具合が良い。
これはこれで気持ちいい作業である。
では好きなのか?
と問われると、う〜ん、という感じもする。
最近気づいたのは、
私にとって「書く」ということは
与えられた「スペック」なのかも、ということ。
瞑想状態に入るのも、オートメーション、つまりは「自動書記」に近いから。
わりと驚かれるのは、人と話しながら全然PC上では違うことを書けること。
普通だと思っていたけど、
どうやら話す回路と書く回路が違うらしい。
これも、当たり前と思っていたけど意外とそうでもないらしく、人に言われなきゃ分からなかった。
そうやって自分が当たり前のようにできることにフォーカスしていくといいかもしれない。
必ずしも「好きを仕事に」が絶対とも限らず、(もちろん、その両方が伴っている人もたくさんいる)
「なんか知らんけど続いてるしまわりからも求められるし、喜んでくれる人もいるもんだからやっている」ということが生業になり、使命だったりするものなのだ。
この、「なんか知らんけど」に実は真実が隠されてたりもする。
「好きを仕事にしたほうがいい」という謳い文句に踊らされ、「私何が好きなんだろう」とジプシーになる人も多いのでは。
もしくは「今の仕事そんなに好きじゃないけど間違えてるんだろうか」と思い悩んでる人もいるかもしれません。
でもですね、実は大丈夫だったりします。
自信を持って全うすれば、必ず華が開きます。
その役割を与えられている理由は必ずある。
そういったスペックを存分に発揮するには、エネルギーがちゃんとチャージされて満たされた状態であることが大切。
それは常に元気で陽気であれ、ということともまた違う。
自分と向き合い、魂のままに自分を表現しているか、ということのほうが重要だ。
だから、三次元的にこうするべきだとか、人と比較したりしながらの「頑張りすぎる」は、わりとうまくいかなくなる。
作家の村上春樹さんはどんなにまだまだ書けそうという日でも、やめる必ず時間を決めて明日に持ち越すらしい。
余白があってこそ、生み出せるものがあるのだろう。
疲れるまでやるのはやめよう!
と、決めた2023年。
せっかく与えられたスペックは大切にしないと。それが自分のためであり、人のためにもなるのだから。
今年もお疲れ様でした。
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